5041  日本人のおつむ程度 王老五 05.04.03

 誰しも気になるところである。が、問題はその計測方法なのである。査定方法である。
 が、学生レベルでなく、実社会の大人の検定となれば、ノーベル賞がひとつの目安になるので
はなかろうか。それとて絶対の基準とはなり得ない。ひとつの物差しとなろう、世界という場に
おける比較する、という面において。ただそのノーベル賞といっても、平和賞となれば、いさ
さかその趣を異にする。いうてみれば「名誉賞」みたいなものだ。が、「枯れ木も山の賑わい」
というではないか、受賞者数では、それも混ぜてあげよう。

 別添ご参照被下度候。


 
 これは「都市日報」紙からの抜粋である。
 1901年から2003年までにかけた国別ノーベル賞受賞者の数である。
 我らが日本、残念ながら、この上位十傑には顔を出していない。もうちょっとだったねえ。日本は
12人だ。惜しい。

 その日本の12人目の受賞者となった若き田中耕一氏が受賞に決まった際、意見を求められた
小泉の言は、
  「日本人、って、大したものだろう。」
というものだった。

 さて、この上位十傑に加わることの出来ない日本人の実力を頂き、、果たして小泉が
「大したものだ」
と自讃したのは、いったい小泉のどういう了見からそんな評価が出たのか、筆者はとうてい理解に
苦しむ。否、理解し得ぬ。ばかばかしい限りだ。
 上記、アジアは一国も加わっていない。が、僅か人口700万人足らずのスイスが21人を輩出
している。日本の人口はその17倍強。それなのに12人しか輩出できていない。スイスだけで
なく、デンマーク、スウェーデンといった国の人口は、スイスのそれに近い。
 
 無論、言葉の壁、という障害を考慮に入れなければならないことは知悉している。世界に
認められるには、日本の中で日本語による論文を発表したところで力を持ち得ない。
 が、それならば英語から遠い、イタリア人などはどうする? 18人を輩出して第七位につけている
ロシア人は? 世界に羽ばたこうとする学者、技術者で英語が出来ないでどうする? 俺は 研究は自信があるが、英語には自信がない、というのはやはりお粗末といわねばなるまい。

 米国に次ぐ経済大国といわれる日本、ということは勉学、研究に勤しむ環境が、経済面でそれ
以下の国々より備わっているものとみなければならない、そんな米国を除き、経済面で恵まれ、
至れり尽せりの環境下にある日本人は、なぜ十傑に顔を出すことが出来ていないのか? しかも、だ、
その国の宰相は現状で大満足の体だ。 

 この都市日報の記事で、後日、同じくノーベル賞受賞の記事があり、今度は米国における
受賞者中、出身大学別の比較表を掲載していた。それによると、トップはやはりか、ハーバード
大学であり、その大学一校の出身者で総数295名のうち、29名を占めていた。
 ということは、日本人受賞者の数は、ハーバード大学一校にも遥かに及ばない、という事実
なのだ。12対29だ。倍以上。三倍以下。 

 そんな米国ハーバード大学出身者だけの受賞者数の四割ぐらいにしか満たない日本人受賞者数で、
どこに満足できるのか、え? 小泉の常識を疑う方が健全であろう、ということがここで読者にとって
理解に達しよう。

 さて、その大学。



 同じく「都市日報」紙からの引用である。

 英国タイムズ紙が、世界の優秀と思われる五〇の大学の間で、評価付けをした結果が、
上記だそうな。

 1.ハーバード、 2、カリフォルニア大学バークレー校、 3.マサチュッセツ工科大
 4.カリフォルニア理工大 5.英国オックスフォード  5.英国ケンブリッジ
 7.スタンフォード    8.エール大        9.プリンストン大
 10.チューリッヒ理工大

 ということである。

 米国以外では、英国のオックスブリッジ両校とスイスのチューリッヒ理工大 だけが顔を
覗かせている。断っておくが、この調査は英国の有名紙が行ったものだ、ということである。
 
 日本は銭儲けでは西欧を凌ぎ、米国と拮抗するほどにまで成長し、アジア各国は遥か麓の下、
もはや肉眼で見えないほど引き離しているにも関わらず、本当の「頭脳」という世界では、
まだまだ一般のアジア諸国の一国にしか過ぎない、ということがよく分かる。
 
 先日今読んでいる小説、Geoffrey Archer著「The Lucifer Network」という諜報物を読んで
いると、主人公が27年前、潜水艦乗りの父親が母国を裏切り、ソ連に情報を流していた、と
いう嫌疑を調査すべく、Scotlandに飛んだ際、その時の風景の描写の中で、「・・の家が見える、彼は
テレビジョンの発明した人であった。」というくだりである。
 テレビすら、日本人が、アジア人が発明、開発したものではない、という事実を、我々日本人、
アジア人は今一度胸に叩き込んでおく必要があろう。なぜテレビまで、というかといえば、ベルに
よる電話など初期における文明の発明は、殆どといっていいほど欧米人に負う。が、テレビというのは、
それからかなり後世の発明、開発となる。それは今から60年、70年前といって差し支えない。
その時期になっても、発明開発能力に長けた欧米人の後塵を日本人、アジア人が依然として
拝していた、という事実だろう。

 ゼロからの発明・開発は、日本人にとって何があろう? アジア諸国内でえらそうにふんぞり返って
おれたのは、もう百年も以前の話だ。が、それが未だに続いているように思えてならない。  ■





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